「丁寧に生きている人」の空気について
「丁寧に生きている人」を見ると、少しだけ、胸がざわつく。
きちんと淹れたお茶を、お気に入りのカップで飲む。旬の野菜で、簡単でも整った食事を作る。使い終わった道具を、丁寧にしまう。そういう人を見ると、「素敵だな」と思うと同時に、心のどこかで、こう思ってしまう。「私には、とても無理だ」と。そして、コンビニのおにぎりを立ったまま食べている自分と比べて、少し、落ち込む。
丁寧に生きている人には、独特の、静かな美しさがある。それは確かだ。でも、その美しさは、どこから来ているのだろう。そして、なぜ私たちは、それを前にすると、少し引け目を感じてしまうのだろう。この二つを、ほどいてみたい。
「丁寧な暮らし」に、引け目を感じてしまう理由
まず、あの引け目の正体から。
SNSを開けば、「丁寧な暮らし」は、あふれている。朝日の入るキッチン、手作りの朝食、整えられた部屋。それらを見るたびに、私たちは、自分の暮らしと比べて、採点してしまう。「私の生活は、雑だ」「こんなふうにできない私は、だめだ」と。いつのまにか、「丁寧さ」が、新しい採点基準になっている。
でも、ここに、大きな勘違いがある。SNSに並ぶ「丁寧な暮らし」の多くは、見せるために整えられた、写真の中の風景だ。それは、生き方ではなく、演出かもしれない。そして、演出としての丁寧さを基準にして、自分を採点しはじめた瞬間、丁寧さは、あなたを豊かにするものではなく、あなたを責めるものに変わる。
「丁寧に生きなきゃ」というプレッシャーは、PRIELLEがいちばん遠ざけたい、新しい足し算だ。丁寧さが、また一つ、「できていない自分」を数える項目になってしまう。それは、本末転倒だ。だから、まず、この引け目から、降りていい。
見せるための丁寧さは、なぜか美しくない
考えてみれば、丁寧さにも、二種類ある。「見せるための丁寧さ」と、「自分のための丁寧さ」だ。
見せるための丁寧さは、どこか、疲れる。誰かに「ちゃんとしている」と思われたくて、無理をして整える。写真映えのために、手をかける。そこには、緊張がある。そして、不思議なことに、その緊張は、纏う空気を、少し硬くする。頑張って丁寧にしている人からは、「見て、ちゃんとしてるでしょう」という、うっすらとした圧が漂う。それは、あまり、美しく見えない。
一方で、本当に美しく見える丁寧さは、誰にも見せていない。人が見ていようがいまいが、その人は、自分の暮らしを、丁寧に扱っている。見られるためではなく、自分が心地よいから、そうしている。だから、そこに緊張がない。余裕がある。その余裕が、静かな美しさとして、外に滲む。
つまり、丁寧さそのものが美しいのではない。誰にも見せずに、自分のために丁寧にしている、その態度が、美しいのだ。
丁寧さは、自分への敬意のかたち
では、自分のための丁寧さとは、何か。それは、突き詰めれば、自分への敬意だ。
お茶を、ちゃんとカップに注いで飲む。それは、「自分は、ペットボトルのまま流し込むより、きちんと一杯を淹れて味わうに値する存在だ」という、静かな態度の表れだ。使った道具を丁寧にしまうのは、「自分が明日また使うときに、気持ちよくあってほしい」という、自分への配慮だ。丁寧さとは、自分を、丁寧に扱うに値する相手として、遇すること。それが、暮らしの細部に、表れているだけなのだ。
だから、丁寧に生きている人は、自分を大切にしている人でもある。そして、自分を大切にしている態度は、これまで見てきたとおり、必ず外に滲む。姿勢に、表情に、そして、暮らしの手つきに。私たちが「丁寧な人」に感じる美しさの正体は、その「自分への敬意」の輪郭を、見ているのだ。
見せるための丁寧さが美しくないのは、そこに、自分への敬意ではなく、他人への気兼ねしかないからだ。主語が、自分ではなく、他人になっている。だから、緊張して、硬くなる。
「丁寧であるべき」ではなく、「一つだけ、丁寧に」
ここが、いちばん大事なところだ。この話を、「だから、丁寧に生きるべきだ」という結論にしないでほしい。
暮らしのすべてを、丁寧にする必要は、まったくない。忙しい日は、コンビニでいい。疲れた日は、部屋が散らかっていていい。ズボラな日も、たっぷりあっていい。丁寧さは、義務ではない。暮らしの全部を整えようとしたら、それこそ、しんどい足し算になって、続かない。そして、続かない自分を、また責めることになる。
だから、こう考えてみてほしい。一日のうち、たった一つでいい。何か一つを、自分のために、丁寧にやってみる。朝の一杯のコーヒーだけ、ちゃんと淹れる。夜、顔を洗ったあとの手入れだけ、少し丁寧にする。それ以外は、雑でいい。「全部を丁寧に」ではなく、「一つだけ、丁寧に」。その一つが、自分への敬意の、小さな入り口になる。
丁寧さは、量ではない。たった一つの、自分を大切にする手つき。それがあれば、十分だ。あとの99は、雑なままで、何も問題ない。
丁寧さは、時間ではなく、まなざしの問題
「丁寧に暮らすには、時間の余裕がいる」。そう思って、諦めている人は多い。手取り22万で、残業もあって、休みの日はぐったり。手の込んだ料理も、優雅なお茶の時間も、現実的じゃない、と。
でも、丁寧さは、本当は、時間の問題ではない。まなざしの問題だ。同じ5分で作るインスタントの味噌汁でも、器に注ぐときに、ほんの少しだけ気持ちを向けるかどうか。同じ通勤路でも、季節の変わり目に、空を一度見上げるかどうか。丁寧さとは、手間の量ではなく、目の前のことに、一瞬だけ、ちゃんと心を向けること。それなら、どんなに忙しくても、3秒あれば、できる。
忙しい人ほど、すべてを「こなす」ことに追われて、目の前のことを、味わわなくなる。ごはんを食べたことも、道を歩いたことも、記憶に残らない。丁寧さは、その流れの中に、小さな「立ち止まり」を差し込むことだ。丁寧に生きている人が纏う、あの落ち着いた空気は、たっぷりの時間からではなく、一瞬に心を向けるまなざしから、生まれている。
だから、時間がないことを、理由にしなくていい。忙しいあなたにも、丁寧さは、いつでも手に取れる。必要なのは、余った時間ではなく、目の前のことへの、ほんの少しのまなざしだけだ。
✦ ✦ ✦
今日、何か一つだけ、自分のために、丁寧にやってみるとしたら、それは何だろう。
大げさなことは、いらない。いつもマグに直接入れているお茶を、今日はちゃんと蒸らして淹れてみる。脱いだ服を、放り投げずに、一度だけ、きちんとたたむ。それは、誰に見せるためでもない。ただ、「私は、自分をこれくらい丁寧に扱ってもいい」と、自分に伝えるための、小さな行為だ。
そして、それができない日は、できなくていい。ズボラな自分を、責めないでほしい。丁寧さは、あなたを採点するための、新しい物差しではない。ただ、自分を大切にしたくなったときに、いつでも手に取れる、道具のようなものだ。
丁寧さの美しさは、完璧に整った暮らしにではなく、自分を大切に扱おうとする、その態度に宿る。
あなたが今日、自分のために丁寧にする一つのことは、あなた自身に、どんな言葉をかけていることになるだろう。
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