美しさを、誰かに証明しなくてよくなった
誰も来ない休日に、メイクをしなかった日
予定のない日曜日。今日は誰にも会わない。
いつもなら、それでも一応、眉くらいは描いていた。宅配便が来るかもしれないし、コンビニに行くかもしれない。「誰かに見られるかもしれない」という前提が、常にどこかにあった。でもその日、あなたはふと、何もしないことにした。すっぴんのまま、好きな音楽をかけて、部屋でだらだら過ごした。
夕方、鏡にうつった自分を見て、意外なことに気づいた。何も減っていない。誰にも見せなかったのに、自分の一日は、ちゃんと満たされていた。「見られるための準備」をしなかった日が、こんなに気楽だったなんて。
美しさに、ずっと観客がいた
これまで、あなたの美しさには、いつも観客がいた。
きれいにするのは、誰かに見られるため。褒められるため、恥ずかしくないため、選ばれるため。鏡の前に立つとき、あなたの後ろにはいつも見えない審査員が座っていて、その視線を意識してメイクをし、服を選んでいた。だから「誰にも会わない日」は、美しくする意味がない日だった。観客がいないなら、公演をやる意味がない、というわけだ。
でも、この構造には、静かな問題がある。観客のための美しさは、観客がいないと成立しない。誰にも見られない日、一人の時間、それらが全部「美しさの空白地帯」になってしまう。人生の相当な部分を占める「一人の時間」が、丸ごと、美しさと無縁の時間になる。それは、少しもったいない話だ。
審査員席から、観客が消えるとき
このシリーズを通ってきたあなたの中では、その審査員席から、観客が少しずつ消えている。
世間の基準を返却した。鏡の中の自分を、採点ではなく物語として見るようになった。自分への態度が空気になることを知った。その過程で、あなたは美しさの基準を、外から自分の内側へと移してきた。基準が内側に移ると、外の観客は、いらなくなる。今朝ときめいたかどうかは、あなた自身が確認できることで、誰かに判定してもらう必要がない。
誰も来ない日曜日が気楽だったのは、そのためだ。証明する相手がいなくても、あなたは自分の美しさを、自分で確認できるようになっていた。美しさが、証明するものから、味わうものに変わった。 観客のいない公演ではなく、自分のための時間になった。
証明しなくていい、ということ
「誰かに証明しなくていい」というのは、投げやりになることとは違う。
「どうせ誰も見てないから、もういいや」と、自分を雑に扱い始めるのは、逆方向だ。それは観客が消えたのではなく、自分という最後の観客まで手放してしまった状態だ。目指すのは、そこではない。誰も見ていなくても、自分のために好きな服を着る、好きな香りをつける。誰に証明するためでもなく、自分がときめくから。証明のプレッシャーから自由になった上で、それでも自分を大切にする。それが、この層で描きたい美しさだ。
観客が消えても、主役のあなたは、そこにいる。むしろ観客が消えたときにこそ、あなたが本当に何を好きなのかが、はっきり見えてくる。
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誰も見ない日に、ひとつだけ
これで、最終層に入る。ここからは、美しさを誰に証明するのか、そして美しさと愛されることの関係、という締めくくりの話をしていく。
美しさは、誰かに証明するものではなく、自分で味わうものだ。観客が消えても、あなたは自分の美しさを確認できる。
今度、誰にも会わない日が来たら、ひとつだけ試してみてほしい。誰にも見せないのに、自分がときめくことをひとつだけする。好きな香りをつける、好きな服を着る。なんでもいい。
そのとき湧いてくる気分が、観客のいらない美しさの、いちばんわかりやすい手触りだ。
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