予定のない土曜日を、怖いと思ったことがあるか
土曜の朝、目が覚める。
アラームをかけていないから、スマホを見るまで何時か分からない。10時半。カーテンの隙間から日差しが入ってきている。
今日の予定はない。
ベッドの中でインスタを開く。ストーリーには、友達がカフェでブランチしている写真。別の子はヨガに行っている。また別の子は彼氏と鎌倉に行くらしい。
画面を閉じる。天井を見る。
自分は今日、何をするんだろう。何もしなかったら、この一日は「無駄な日」になるんだろうか。
慌ててカフェを予約しようとする。一人で行ける展覧会を検索する。SNSに載せられそうな「それっぽい休日」を急いで組み立てようとする。
でも心のどこかで分かっている。それは「やりたいこと」ではなく、「やっていないと不安なこと」だと。
この記事は、予定のない休日が怖い人に向けて書いています。
「充実していない」が怖い
予定がない休日の何がそんなに不安なのか、自分でもよく分からない。
一人の時間が嫌いなわけではない。むしろ家で過ごすのは好きだ。Netflix見て、ダラダラして、15時くらいにやっとシャワーを浴びて、近所のスーパーに行って、夜はYouTubeを見ながらご飯を食べる。
これ自体は悪くない。平日がんばっているのだから、休みの日くらいこうやって過ごしたっていい。頭ではそう分かっている。
なのに、日曜の夜になると小さな罪悪感がやってくる。
「今週末も何もしなかった」
この「何もしなかった」には、独特の重さがある。仕事で何もしなかった日とは違う種類の重さ。自分の人生が進んでいないような感覚。
友達はあの展覧会に行った。あの子はパン教室に通い始めた。あの子は毎週末ジムに行っている。みんな何かしている。何かに取り組んでいる。なのに自分は、一日パジャマでYouTubeを見ていた。
この比較がじわじわと自分を削っていく。
「何かしている自分」に依存していないか
予定のない休日が怖いのは、暇が嫌いだからではない。何もしていない自分を肯定できないからだ。
逆に言えば、「何かしている自分」にしか価値を感じられなくなっている。
カフェに行った。展覧会に行った。ヨガをした。新しいレシピに挑戦した。——こういう「した」の一覧があると安心する。今週末の自分には中身があった、と思える。
でもこれは、行動で自分の価値を証明しようとしているということだ。
「これが私です」と差し出せるものがないと不安になる。何かを持っていないと、何かをしていないと、自分の存在が薄くなる気がする。
平日は仕事という「やること」があるから気づかない。でも休日、予定が空白になった瞬間、その不安が顔を出す。
何もしていない自分は、価値がないんじゃないか。
この恐れが、あなたをベッドの中からカフェの検索に駆り立てている。
「丁寧な暮らし」の罠
ここで、一つだけ触れておきたいことがある。
「丁寧な暮らし」というやつだ。
朝は白湯を飲んで、手作りのグラノーラを食べて、花を飾って、アロマを焚いて、手帳に今日の目標を書く——SNSに溢れている「素敵な休日の過ごし方」。
これ自体が悪いわけではない。本当に白湯を飲みたくて飲んでいるなら、それは素敵なことだ。
でも「丁寧な暮らし」が、いつの間にか「やらなければならないこと」になっていないだろうか。
丁寧に暮らしている自分は素敵。丁寧に暮らしていない自分はダメ。カップ麺を食べてNetflixを見て一日が終わるのは「丁寧」じゃないから、そんな休日は失敗。
これは新しい「他人の基準」だ。
「充実した休日を過ごすべき」。
「自分を大切にする休日を過ごすべき」。
「せめて休日くらいは丁寧に生きるべき」。
「べき」が増えるたびに、休日が窮屈になっていく。休むための日が、また別の「やるべきこと」で埋まっていく。
休日にカップ麺を食べることと、自分を大切にしていないことは、本当にイコールだろうか。
何もしない日にも、あなたはいる
何もしない日にも、あなたは存在している。
当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれない。でも、予定のない休日に不安を感じているとき、私たちは無意識にこの当たり前を忘れている。
何かを「した」自分にしか価値を感じられないとき、何も「していない」自分は透明になる。存在しているのに、カウントされない。
でも思い出してほしい。
何もしていない土曜の昼下がり。ソファに寝転がって、窓から入る光を眺めている。エアコンの音だけがしている。そのとき、あなたは何もしていないのではなく、休んでいる。
5日間、毎朝起きて、化粧をして、電車に乗って、仕事をして、気を遣って、帰ってきた。その体と心を休めている。それは「何もしていない」のではなく、自分を回復させている。
回復することを「何もしていない」に分類するのは、あなたが自分の疲れを軽く見ているからだ。「そこまで大変な仕事してないし」「みんなだって同じだし」——また他人のものさしが出てくる。
あなたの疲れは、あなたにしか分からない。誰かと比べて「大したことない」と判定するのは、自分の体に対して失礼だ。
休日にだらだら過ごした自分を「何もしなかった」と否定するのは、やめてもいい頃だと思う。
退屈は、悪いことではない
もう一つ、逆のことを言わせてほしい。
「何もしない」ことへの不安を手放したあと、たぶん退屈がやってくる。
何も予定がない。SNSも見ない。やるべきこともない。ただ時間がある。
この退屈に耐えられなくて、また予定を入れたくなる。スマホに手が伸びる。何かで時間を埋めたくなる。
でも、少しだけ我慢してみてほしい。
退屈の中にしばらくいると、不思議なことが起きる。
ふと、「あ、あの本読みたいな」と思う。
「そういえばあのカフェ気になってたな」と思い出す。
「今日はなんか散歩したい気分だな」と体が動く。
これが、自分の内側から湧いてくる「やりたい」だ。
SNSで見かけたから。みんながやっているから。充実していないと不安だから。——そういう外側からの動機ではなく、退屈の底から自然に浮かんでくる欲求。
この欲求は、予定で時間を埋めている限り出てこない。余白がないと芽が出ない。退屈は、自分の「やりたい」が育つための土壌なのだ。
PRIELLEが「自分の基準で選ぶ」という話をしたとき、「自分のときめきが分からない」と感じた人もいるかもしれない。そのときめきは、忙しさの中では見つからない。退屈の中で、ようやく顔を出す。
だから退屈を怖がらないでほしい。退屈は敵ではなく、あなたの「好き」を見つけるための準備時間だ。
「何もしない」を選んでいる、という事実
最後に、一つだけ視点を変えてみたい。
予定のない土曜日、あなたは「何もしていない」のではない。
「何もしない」を選んでいる。
起きて、ご飯を食べて、ソファに座って、テレビを見る。この一つ一つを、あなたは選んでいる。外に出ないことを選んでいる。一人でいることを選んでいる。休むことを選んでいる。
それは怠惰ではなく、選択だ。
何もしないことすら、あなたは「何もない」の中に入れている。
でも本当は、何もしない土曜日を過ごしているあなたも、ちゃんとそこにいる。パジャマのまま、髪を結ばないまま、カップ麺を食べている自分も、紛れもなくあなたで、その時間にもちゃんと価値がある。
誰かに見せるための一日じゃなくていい。インスタに載せられる一日じゃなくていい。
あなたが「これでいいや」と思えた休日は、それだけで成功だ。
今度の週末、試してみてほしいこと
次の土曜日、もし予定がなかったら。慌ててカフェを探さないでほしい。
朝起きて、とりあえず何もしない時間を30分だけ作ってみてほしい。
スマホは裏返しにして置いておく。テレビもつけない。ただ窓の外を見る。お茶を淹れてもいいし、淹れなくてもいい。
30分、何もしない。
最初は落ち着かないと思う。手持ち無沙汰で、スマホに手が伸びそうになる。
でもそのまま座っていると、少しずつ体の力が抜けてくる。頭の中のノイズが静かになる。そのとき初めて、自分が本当はどれくらい疲れていたのか気づくかもしれない。
30分後、何かしたくなったらすればいい。何もしたくなかったら、しなくていい。
大事なのは、その30分を過ごしたあとの自分に「何もしなかった」と言わないことだ。あなたは30分、自分を休ませた。それはちゃんと「した」ことだ。
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予定で埋まった週末は安心する。写真を撮って、ストーリーに上げて、「充実した休日」の証拠を残せる。
でも、誰にも見せない土曜日の午後に、パジャマのままソファで笑っている自分のほうが、案外あなたらしかったりする。
その自分を、否定しなくていい。
何もしない一日を、「悪くなかったな」と思えること。 それは、自分を受け入れ始めている小さなサインだ。